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英国語学留学の旅
―ケインシャム、ボーンマス、ロンドンー
1.はじめに
長らく会社勤めをする傍ら、趣味の一環として語学学校に通い英会話を楽しんできました。退職を控えたある日、英語圏での生活体験ができる中高年を対象とした語学留学のプログラムがないかとインターネットにアクセスしたところ「50UK.COM」のウエッブサイトに出会いました。
掲載された記事に心を動かされ、これを主催するウエッブトラベル(株)英国語学留学センターに早速電話し、何度か訪問、相談するなかで今回の「英国語学留学の旅」の全行程を編んで戴きました。
プログラムの大要は、先生宅ホームステイ二週間と語学学校への通学二週間、そして最後にロンドンに三日間立寄り市内見学をして帰ると言うものでした。
成田を5月9日に出発、6月10日に帰国した今回の英国語学留学の旅は、64歳になった私にとって始めての一人旅であり多少の不安もありましたが、滞在中に経験した全てが私の長い人生において始めての事であり、得難く、心を動かされ、そして忘れ難いものとなりました。
この度滞在したケインシャムでの先生宅ホームステイ、ボーンマスでの語学学校への通学そしてロンドンでの市内見学の概要についてご紹介したいと思います。
2.成田からブリストルへ
成田空港まで女房が見送りに来てくれました。ヴァージン・アトランティク航空のチェックイン・カウンターに行くと、オンライン・チェクインされた方はこちらの列にと係りの女性に言われ並びました。
一ヶ月間の長期旅行となるため持ち物も多くやっとの思いでスーツケースの重量を制限以内に抑えたので計量は大丈夫かなと思いつつ並んでいました。果たして計量もスムーズにパスし、搭乗券を渡されバゲッジ・クレームタグをパスポートに張り付けて貰いました。
出発時刻まではだいぶ間もあり暫く待合コーナーのベンチに座って過ごしました。掲示ボードには出発時刻は30分遅れの12時00分との表示があり、到着時刻が少し懸念されました。
税関検査、出国審査を済まし搭乗口に向かって歩きながら、いよいよ一人旅が始まったと実感しました。未だ搭乗時刻までは一時間弱の余裕があり、ソファーで休んだり免税店を見て回ったりして搭乗のアナウンスを待ちました。
エアバスA340-600/VS901の座席は最後部に近い通路側でした。外国人乗客の姿もありましたが、殆どが日本人乗客のようでした。
フライトアテンダントには4~5人の日本女性がいて甲斐甲斐しく働いていましたので外国の航空機に乗ったと言う感覚はありませんでした。2時間程して食事が出た後は機内も暗くなり、眠ろうと努めましたが眠られず映画を見てはまどろみ、また映画を見てはまどろんでいました。
途中に飲物と軽食、到着前に食事のサービスがありました。ヒースロー空港の上空に至り一度着陸態勢に入りましたが、未だ日航機が滑走路上にいるとのことから上空で待機せざるを得ませんでした。ぐるぐると旋回すること約30分、途中出発の遅れを回復したものの都合45分遅れの午後4時30分に着陸しました。
飛行機を降り入国審査の場所に行くと、広い建物内がほぼ埋め尽くされる程の長蛇の列、その最後尾に並びました。前は殆どが日本人客、でも会話を交わすこともなく遅々として進まない列のなかでバスへの乗り継ぎ時刻が気になり始めました。それが次第に間に合わないと諦めの気持ちになってきました。審査窓口ではパスポート、入国カードそれに受入機関の確認書を一緒に提出し、入国目的をLearning Englishと言うと顔を見て直ぐに通してくれました。
バッゲジ・クレームには既に荷物の引き渡しが終わったのか誰も居らず私のスーツケースの他 2~3個置いてあるだけでした。殆ど諦めて税関に進むと、なんと係員も見当たらず素通りでした。乗り継ぎ時刻まであと15分、一転意を強くして案内標識に従って長い通路をスーツケースを押して小走りに、そして気忙しくエレベータに乗るとヒースロー・セントラル・バスステーションに着きました。なんと5分前、辺りを見渡しブリストル行きのバスを見つけ、運転手さんに確認し荷物をバスに載せて貰い乗り込みました。後部座席の空いた席に座ると直ぐに発車しました。
安堵して周りの乗客を見ると外国人だけで日本人の姿はありませんでした。やっとイギリスに着いたとの実感が湧いてきました。空港から高速道路に入ると間もなく田園風景が広がり、6時を過ぎたと言うのに、太陽は未だ西の空高くギラギラとした光が車窓を照らしていました。緩やかな丘陵に広がる青々とした牧草地や点在する黄色い菜種畑が印象的でした。ほぼ真西に進むこと2時間してブリストル・バス・ステーショオンに着きました。
荷物を受け取り辺りを見渡すと、そこに迎えに来てくれた先生の姿がありました。挨拶を交わし車に乗ると市内を巡り先生のお宅があるケインシャムに向かいました。
3.先生宅ホームステイ
3.1 ケインシャムのホーム
ケインシャムは英国の南西部に位置するブリストルとバースの中間にある小さな町です。
町の中心であるハイストリートの両側には多くの商店が並び、その一方の端には古い教会が、他の端には公共の施設が建っています。ハイストリートの周りには古い石造りのフラットやセミディタッチトゥハウスが建ち並び、それを過ぎると牧草地や菜種畑が広がる緩やかな丘陵地となっています。ブリストルやバースのベッドタウンとも言え、ロンドンへは鉄道や高速道路で約2時間の距離にあり、運河も通じているとのことです。
先生宅はこうした住宅街の一角にある石造りの三階建てセミディタッチトゥハウスでした。1901年に建造された家は、先生が引越しされて以降一部補強改装されたようですが、いかにも堅牢でかつ綺麗な岩肌の文様が印象的でした。また建物の三方を囲む芝生と草花の植込みそして敷地を画する木々は、見事に調和し美しい庭園を創りあげていました。繁茂した緑の合間に鳥の巣があり、朝晩に小鳥の囀りが聴こえました。
私に用意された三階のアティクは、階段を上がるとソファーが置かれたフリースペース、その奥に小さなキッチンとシャワー室そして二つのベッドルームがありました。そのうちの一部屋で二週間起居しましたが、隣室も時々ソファーに座りホームワークや日記を認める等利用しました。
3.2 レッスン
先生宅ホームステイにおける先生はご主人です。先生は外国語としての英語教育の資格をお持ちです。これまでも何人か日本人を受け容れた経験がおありと伺いました。
レッスンには窓から綺麗なリンゴの花が眺められる大きなダイニングルームが使われました。レッスン時間は概ね午前9時から10時30分、その後30分の休憩時間を挟んで11時から12時30分までです。私に用意されたテキストはPEARSON Longman 出版のNEW CUTTING EDGE INTERMEDIATE と WORKBOOK でした。最初の三日間はテキストに基づき文法と練習問題を教えていただきましたが、文法については日本の語学学校で一通り終了していましたのでテキストの他に英国の歴史文化、生活習慣、カレントトピックス等お話をして戴きたいと申し上げました。
その後は前半のレッスンでPolite requests, Reported speech, Conditionals, Phrasal verb について補足的な説明をしていただきました。休憩時間を挟んだ後半のレッスンでは、大きなカレンダーの裏表紙を使いブリストルの歴史、英国の歴史、新聞、ジェーン・オースティンの本の拾い読み、公休日、年金制度、英国の防衛問題等を取り上げ解説していただきました。英国事情を理解する一助に成ったばかりではなく、特にジェーン・オースティンの本には滞在したケインシャムや近隣のバースの街を描いた件があり、先生から通読するよう奨められました。翻訳本でさえ英国の著名な作家の小説を殆ど読んだこことのない私にとって今後も英語の勉強を続けていく良い刺激となりました。
3.3 エクスカーション
受入機関のGeneral English Course のエクスカーションには、原則として週二回の午後のエクスカーションと週末一回一日のエクスカーションが編まれていました。しかしレッスン初日に先生から渡された日程表には、ケインシャムは勿論、ロンドンへの一日旅行を含め近隣のブリストルやバース、ウェルスを始めウェールズの首都カーディフまで盛り沢山の計画が載っていました。但し、この中で訪問前にどうしても行きたいと思っていたコォツオルズが入っていなっかたので後日、滞在を一日延ばして最後の土曜日にご案内戴くようお願いしました。
訪問した場所や日時等は前後しますが、その概要を述べることにします。
ケインシャム 先生に連れられ街を探索しました。先にご紹介しましたように、先生宅から石造りの住宅街を抜けるとハイストリートに出ます。賑やかなのはこの通りだけで郵便局、本屋、小さなスーパーに立寄った後、近くの小川の流れる公園に行くと散歩する親子連れや一角に珍しいことにスケートボードの練習場があり若者が興じていました。この後ケインシャムの街を一人で訪れたのは一回だけで、室内履きを買うため靴屋に立寄ってからハイストリートの外れまで行くと、古色蒼然とした石造りの入口にホテルの看板が掛かっていました。ベッドタウンのこの町にも今大型のスーパーマーケットが建設中です。
ブリストル 嘗ては綿花、ワイン、そして奴隷貿易の港町としてロンドンに次ぐ第二の都市として繁栄を謳歌し、今でも英国有数の都市として発展を続けています。ブリストルには都合三回訪れました。受入機関であるLiving learning English 主催の近在の先生宅ホームステイの先生方を集めた英語の発音に関する会議がありました。その折、先生と一緒に早朝から車でブリストル近郊の大型駐車場に行き、そこからバス(英国ではコーチと言ってる。)に乗り専用レーンで市の中心に向かいました。所謂Park and Ride 方式です。先生方の会議中、ホームステイしている私を含めて7人の生徒は、担当者に連れられブリストル川の船着場から遊覧船に乗って河口に近いドライドックに行き、見学用に係留されているグレイトブリトン号を見学しました。かの有名なIsambard Kingdom Brunel によって設計された世界初の鋼鉄製外洋蒸気船は、大西洋航路の貿易、オーストラリアへの移民船として活躍し、今は多くの観光客を集めています。また遊覧船に乗り元の船着場に帰ってから近くのレストランに入り昼食をとりました。店を出ると会議を終えた主催者の女性が迎えに来ていました。
二回目は先生の車で市内に向かいました。果たして路上の駐車スペースを見つけるのに周辺を何回か巡りました。18世紀のジョージ王朝下の偉容を誇る建物群を抜けると突然と渓谷が現れ、その新緑に囲まれたエイボン川の上に静かにクリプトン吊り橋が掛かっていました。これもかのBrunelによる作品だそうです。因みに蒸気機関車も設計しているとのことです。この後市内にある大きな教会を訪れました。教会に面した広い芝生には三々五々若者が集う光景が見られました。
三回目は先生と買い物に行った後、ブリストル郊外のブリストルブルーグラス工房に連れて行って貰いました。高熱炉の前で灼熱の溶けたガラスを吹く工程を見学してから、店頭に飾られた美しく透明なブルーグラスやワインレッドのグラスなどに魅了されました。
バース 古代ローマ帝国のローマ様式風呂の建物遺跡がある等歴史ある温泉地としても有名な都市です。所謂英語の風呂、bathの語源となった所です。バースには後述するコンサート、観劇を含め四回程足を運んでいます。初回は市内見物でした。路側の有料駐車場に車を止め周りを見渡すと、そこはブリストル同様、18世紀のジョージ王朝時代の琥珀色の壮麗な建物で埋めつくされていました。町の中心アビー・チャーチ広場に隣接するバース・アビー、ローマン・バスに目を見張りながらエイヴォン川に出るとバルトニー橋の橋上市場やバルトニー・クルーザーズの船付場が眺められました。ロイヤル劇場辺りまで市街を散策し、更に車でロイヤル・クレッセントに行き綺麗な三日月の曲線を描く建物に魅了されました。バース・スパ駅、バスステーションを経ての帰途、今はパブになっているロック・キーパーに立寄り喉を潤しました。
その後ローマン・バスを十分見学する機会がありました。紀元前一世紀に建てられたと言うこの大浴場は今も緑色をした温泉を満々と湛えています。浴場の四囲を巡る二階建ての回廊には数々の彫像がその偉容を誇っていました。また建物の内部には当時を彷彿とさせる沢山の遺品や遺骨とともに、露出した建物の基礎や外壁の一部が遺構として陳列されていました。さらに今でも沸々と湧き出る源泉と浴場から溢れ出た廃水を流す暗渠が見て取れます。
見学が終わった後、18世紀に社交場として建てられ今はレストランになっている隣接するパンプ・ルームでアフターヌーン ティーを楽しみました。
ウェルス ケインシャムから真南に位置する小さな町の中心にThe Cathedral Church of St Andrew がありました。教会の西正面には世界最大級の中世彫刻のギャラリーを備え、内部のシザーアーチは現代建築と紛う程の驚嘆する設計が施されていました。世界第二の現存する古時計が正時を打つと鐘の響きとともに人形が現れる、その光景を見学に来ていた高校生等と一緒に見上げました。国からの補助を一切受けていない教会は、有料で内部の撮影を許可していました。教会の前の広場にはクラフト市場が立ち、街路には瀟洒な商店が立ち並び漫ろ歩く少なからぬ観光客を惹きつけていました。
カーディフ ロンドンから続く高速道路M4に乗りブリストル海峡に架かる斜張橋を渡るとウェールズの首都カーディフに入ります。今回の旅行は市内見学と言うより先生の親族による私的パーティーが行われている間、市近郊にあるセント・ファガンズ国立歴史博物館を一人で見学しました。約6万坪の敷地にはウェールズ地方の農家や商家、郵便局、鞣革工房、鍛冶屋、学校、教会等の古い建物が移築されており、当時の生活を偲ぶことができました。現代の暖炉を中心としたリビングの生活が如何に発達してきたかが良く分かりました。また展示室には衣装や農機具、生活用具も多数展示されその変遷を見ることができました。
ロンドン 奥様が、嘗て勤務されたことのある職場の同窓会に出席されるとのことから、先生ご夫妻と一緒に鉄道で出掛けました。車窓に広がる青々とした田園風景に魅せられながらヴィクトリア駅に着くと直ぐに、地下鉄(テューブとも言う。)に乗り換えトラファルガー広場に出ました。そこからホワイトホール沿いにホース・ガース、ダウニング街10番地(首相官邸)のゲート、ウエストミンスター寺院そして国会議事堂、ビッグベン等を見て回り、テムズ川に架かるウエストミンスターブリッヂに出ると、眼前に大観覧車のロンドンアイが現れました。橋の袂にある船付場からテムズ川を巡航する遊覧船に乗りロンドン塔に向かいました。
川面からウォータールーブリッジや沿岸に林立する著名なホールや劇場、再開発された高級フッラトを眺めながら航行し、ミレニアムブリッジで途中下船しました。2000年を記念して作られたこの歩道橋は、テートモダン、シェイクスピア・グローブ座とセントポール大聖堂の間を結び、多くの観光客で賑わっていました。
遊覧船は更にロンドンブリッジを潜りタワーブリッジに向かいました。土曜日でもあるこの日は、ロンドン塔の周りには殊のほか大勢の観光客が押しかけていたように思いました。観光を終え帰りがけに、思いもよらずタワーブリッジの端桁が開き大型観光船が通るのを見る幸運に巡り合いました。帰りの船は何処にも寄らずウエストミンスターブリッジまで直行しました。その間、私は専属のガイドではないとしながらも若い船員がロンドン訛りのカクニーで案内してくれたのが懐かしく思い出されます。船を下りてからロンドンアイの近くで同窓会を終えた奥様等一行と落ち合いウォータールー駅の近くのパブでワイングラスを傾け帰途に着きました。
コッツウォルズ 緩やかな丘陵に広がる牧歌的な田園風景、諸所に点在する村々の蜂蜜色の建物、イギリス屈指と言われる美しさを誇るのがこの地方です。コッツウォルズには実は二回訪れました。初回は古戦場やブリストル海峡に架かる橋が眺望できる丘に案内された後、青々とした牧草地、鮮やかな黄色い菜種畑、沿道に積み重ねられた長い石塀、鬱蒼とした或いは木漏れ日の光る緑のトンネルを、車を駆ってこの地方の南部に位置するテットベリーを訪れました。チャールズ皇太子やアン皇女も時々訪れるとのことです。ゴシック様式の聖メアリー教会や石畳の道路脇には相当年月を経た古い建物が並んでいました。骨董店や装飾店と並んでチャールズ皇太子の経営する土産物店がありましたので、中に入り小冊子を求めました。隣接する瀟洒なレストランで昼食をしてから、更に古本屋等を覗き、最後に教会を見学して帰りました。
次回はケインシャム滞在最後の土曜日、ストラトフォード・アポン・エイヴォンまでコッツウォルズ地方をほぼ縦断するかたちで案内して戴きました。紺碧の空が広がる素晴らしい天気の下、絵のように美しい風景に魅せられながらのドライブでした。先日訪れたテットベリーの町を抜けボートン・オン・ザ・ウォーターで駐車しました。ウインドラッシュ川のせせらぎの周りには大勢の行楽客が集い、伝統的な衣装を着た男女が軽快な音楽にあわせてモーリッシュダンスを踊っていました。古い家並みを再現したモデル・ヴィレッジや自動車博物館を見学してから次の町に移動しました。
ストウ・オン・ザ・ウォルドでは車を止め近くの教会に入りました。ガランとした内部には人影も疎らでステンドグラスを見上げ、案内の女性に話し掛けたのを覚えています。
モートン・イン・マーシュに着いたのは正午を過ぎていました。高級ホテルが建ち並ぶ道路に面した建物の入口を入り奥に進むとパブのカウンターがあり、その先の小さな中庭はレストランのテラスになっていました。伝統的な料理のビーフとマッシュポテトの付合わせを注文しビールとワインで乾杯しました。
ストラトフォード・アポン・エイヴォンは強い日差しの中でした。クラプトン橋に至るブリッジストリートの両脇は商店が続き、溢れんばかりの人波の歩道を抜けるとエイヴォン川に出ました。川岸の広い芝生の上では、親子連れや若者が三々五々ゲームや日光浴を楽しんでいました。ロイヤルシェイクスピア・シアターは改装中で小劇場だけが開いているとのことでした。横道にそれるとそこは木組みの美しい家並みが続きまるで中世にタイムスッリプしたかのような錯覚に陥りました。ケインシャムに帰る途中、伝説のアーサー王が最後の戦いで傷つき埋葬されたとするGlastonbury Abbey に立寄りましたが、残念ながら休館中で入ることができませんでした。
3.4 趣味と晩餐
滞在中に先生ご夫妻ないしご家族と一緒に過ごす夕べのひと時がありました。奥様の趣味の一つである合唱(奥様はChoir と言っておられた。)の発表会に参加、またお二人の趣味でもある観劇に連れて行ってもらいました。更に自宅で行われた息子さんの誕生パーティーと私の送別パーティーでは心温まる家族団欒を味わうことができました。この他ウイークエンドにはテラスに出て、爽やかな青空の下での朝食を楽しみ、また何時までも明るい夕べの夕食に寛ぐなど、常日頃忙しい中にも quality of life を大切にする一面を垣間見た思いがしました。
合唱の発表会 バース市内のペトロ・ステーションでガソリンを入れた後、勤務を終えた奥様と同僚の女性を乗せ合唱の発表会の開催される高校まで送りました。会の始まりまで時間があったので郊外まで車を飛ばしパブ・レストランに入り夕食を取ることにしました。道路脇の何の変哲もない石造りの一軒屋に足を踏み入れると色取り取りのリカーを備えたカウンターとその先に暖炉を設えたレストランがありました。サンドイッチとビールを注文し大きな窓越しに見える渓流沿いの古色蒼然とした家々やその背後に広がる牧草地を鑑賞しながら食事をしました。
講堂の入口で手製のプログラムを受け取り中に入ると大勢の観客が詰め掛けていました。先生の友達夫妻に挨拶して椅子に座ると奥様の所属する合唱団の他に幾つもの合唱団がそれぞれコンサート用の衣装に身を包み現れました。指揮者の女性はテレビにも出演される有名な歌手で、各合唱団は彼女が指導されているとのことでした。プログラムに従い各合唱団が順次登壇し美しいハーモニーを響かせていました。彼女も独唱し、最後は全員が登壇し楽しい曲目が披露され万雷の拍手を以って終わりました。
観劇 少し早めの夕食を済ませ先生と一緒にバース市内にあるロイヤル劇場に向かうと、間もなく勤務を終えた奥様がお友達夫妻と共に見えました。劇場の入口には授業の一環なのか多数の女子高校生が押し掛け賑わっていました。それ程大きくはない劇場の二階前列に座り周りを見渡すと、薄明かりの中に舞台正面に下がる緞帳や両袖のボックス席等見え荘重な面持ちになりました。演目は、THE WOMAN in BLACK でそのストーリーは次のようなものでした。
「黒人女性の亡霊により呪いを掛けられたと信じる弁護士を、懐疑的な若い俳優が助けようと彼に怖い話を語らせ恐怖を取り払おうと努力するが、やがて彼ら自身も不気味な沼地, 風の唸る世界に捕らわれ、空想と現実の境が霞み、そして肉体がむずむずとし始める・・・」
出演者は男優二人だけで舞台装置も机と椅子だけの簡素なものでした。勿論会話を聞き取ることは難しかったが、その場の雰囲気を十分堪能することができました。幕間には階下のラウンジに下り、先生ご夫妻と友達ご夫妻と一緒にワインを傾け談笑しました。バースの劇場はロンドンに先駆けて演じられることが多く、言わばパイロット的な役割を果たしているとも聞きました。この度の観劇は当初の計画には挙って無かったものでしたが、内容が分からなくともその場の雰囲気を味わいたいと敢えて申し上げたところ、直ぐにチケットの予約をして戴き実現しました。
送別パーティー 滞在も終わりに近づいた最後の金曜日、エクスカーションから帰ると庭のテラスに奥様と息子さんのご家族が待っていました。日が傾いたとは言え未だ明るい夕べ、ビールを飲みながら歓談しました。そらからダイニング・ルームに移りパーティーが開かれ、伝統的料理であるフィッシュ・アンド・チィプが用意され美味しく戴きました。
この時もパーティーの中ほどにシェリー酒で乾杯しました。ご家族皆と懇親を深めるなか、先生から来年は女房と一緒に来るよう言って戴きました。デザートが終わったところで、頃合いを身計りこの度の先生宅ホームステイを感謝して簡単なお礼のスピーチをしました。
後で奥様からスピーチをしたのは貴方が始めてよと言われました。感謝の意を言葉で表したいとの思いから敢えて行った次第でした。
3.5 日常生活
ここで先生宅ホームステイを日頃どの様に過ごしたかを簡単に触れておきたいと思います。朝はだいたい7時頃起き、シャワーを浴び洗面しました。朝食は8時半前後に済むと、9時から10時30分まで前半のレッスン、30分の休憩を挟んで11時から12時30分までが後半のレッスンでした。午後は規定の週二回のエクスカーションの他、ほとんど毎日のように何処かに連れて行って貰いました。夕食は午後の日程や勤務の忙しい奥様の帰宅を待ったりして区々、7時から9時ごろでした。遅い時は夕方スイーツや飲物が用意されました。その後は団欒を含めテレビをよく見るように努めました。10時にはベッドルームに上がり11時ごろ就寝しました。週末もいつもの時間に起き、朝食を終わってからデイトリップに出掛け夕食の時間までには帰るようにしていました。
当地に来て励行したことは、バスタブの無いシャワー室だったのと、ほとんど汗をかくことが無かったので、朝、シャワーを浴びることにしたことと、毎朝コップ一杯の水を飲み快便を促すことでした。結果は良好でした。
夕方そして夕食後ベッドルームに上がるまでの2~3時間テレビを一緒に見たのは大変有意義でした。国会はハングパーラメントの状態で、保守党と自由民主党との歴史的な連立内閣について連日著名な政治ジャーナリストが出演し論評を加えていました。また労働党のブラウン首相が退陣を表明し、ダウニング街を去る光景を見ることができました。更に、コロネーション・ストリートやイーストエンダーなど所謂人気があり長く続いているホームドラマを見ることもできました。三面記事ではタクシー運転手の12人連続殺人事件などが連日報道されていました。勿論これらのテレビは口調も早く聞き取れないでいると、傍らの先生が時折解説をしてくれました。
3.6 ボーンマスへの移動
次の滞在先ボーンマスに向けて出発する日曜日の朝、空は抜けるように青く澄み切っていました。いつもの時間に起き、少しばかり遅い朝食を先生ご夫妻と一緒に庭のテラスで食べました。それから奥様に説明を聞きながら改めて小鳥の囀りが聴こえる美しいイングリッシュ・ガーデンを見て回りました。
お別れの挨拶をした後、先生に中心街を少し離れたケインシャムの駅まで送って貰いました。そのハイストリートに新聞を買いに行くと言う奥様も同乗され途中まで一緒でした。ホームに列車が入ると先生は重いスーツケースを運び入れてくれました。そして列車が発車するまで見送ってくれました。
車内は比較的空いていました。荷物置場に近い座席に座りバッグからガイドブックを取り出し目的地の地図を見たり、車窓の景色を眺めたりしていました。途中駅から賑やかな女子学生の一団が乗ってきてそのお喋りがずっと続いていました。車掌は乗客のチケットにチェックを入れていました。やがて二時間程で乗換駅のサウサンプトンに着きました。ホームにいた駅員にボーンマス行のプラットホームを聞くと丁寧にNo.4と教えてくれました。指図どおりリフトに乗ってNo.4 に行き、そこでまた改札口にいた駅員に行く先を確認しました。
プラットホームに隣接するファストフード店に入り、列車の来るまでの短い間サンドイッチと水のペットボトルを買い急いで食べました。ホームには徐々に乗客が集まってきましたが、少し遅れるとのアナウンスがありました。
間もなく到着した列車の雰囲気は前の列車とは大分違っていました。若者や家族連れが多くその姿もまるで海水浴に行く真夏の格好でした。こちらはセーター姿だと言うのに。車窓の風景も港を過ぎると沼沢地や松林が望まれ、海岸の近くを走っているのが分かりました。1時間程してボーンマスの駅に着きました。改札口を出るとタクシーが並び駅前のコーチステーションには何台ものコーチが停まっていました。出迎えの車も多く暫く混雑していましたがやがて乗降客も疎らになりました。到着した旨を携帯電話でホームステイ宅に知らせると、十分程して奥様が車で迎えに来てくれました。
4.語学学校
4.1 アングロ・コンティネンタル
この度在学した学校は、ブリティッシュカウンシル認定の Anglo-Continental School of English と言い、ロンドンから南西に約160Km,コーチで2時間程の海岸に面した町 ボーンマスにありました。町の中心から徒歩で30分程の学校は、こんもりとした木々に囲まれた邸宅や大きなフッラトが立ち並ぶ一角にあり、市街に通じる大通りに面していました。
正門を入ると白い大きな建物が二棟、前庭には芝生が広がり境界にはライラックや赤や桃色の芙蓉の花が緑の木々に彩りを添えていました。正面右側の建物には低い事務棟が併設されており、毎朝、レッスンの始まる前にこの前の大きな木の下に三々五々生徒が集まり挨拶を交わしていました。左側の建物一階にはカフェテリア方式の大きな食堂があり、レッスンの合間や午餐のときには大勢の生徒や先生達で賑わっていました。英語は勿論、ドイツ語、スペイン語そして日本語等の飛び交う国際色豊かな食事風景です。また食堂の前のテラスや庭に置かれた椅子に座って談笑したり、一人静かに読書したり日光浴を楽しむ生徒達も見受けられました。
レッスンの教室は総じて10数人が入れる程度のものからそれぞれのコース全員が収容できるものまで様々でした。このほか講堂やオーディオルームも用意されており、カリキュラムに従い移動していました。
4.2 レッスン
初めて学校に登校した月曜日は今回の Over 50's Programme に参加した27名全員が 講堂でのオリエンテーションを受けた後、リスニングを含めた45分程の簡単なテストが行われました。その後コースを担当する二人の先生(LindaとTony)に引率されバスに乗りボーンマスの中心街やクライストチャーチの美しい海岸に案内されました。午後、また同じ講堂に集まりテストの結果により3クラスに分けられ、明日から受けるそれぞれのレッスン教室に案内されこの日は散会しました。
翌日から通常のレッスンが始まりました。レッスン時間は8時45分から10時15分までの前半と、休憩時間の30分間を挟んで10時45分から12時15分までの後半に分かれていました。私の所属したクラスは12名で、レッスン初日にオックスフォード大学出版の New ENGLISH FILE - Intermediate Student's Book- が渡されました。初日、2日目とこのテキストに基づきレッスンを受けましたが、3日目になりクラスの編成替えがあり、新たなクラスは私を含め4名となり別の教室に移り、また改めて別のテキスト 同じ出版社の New ENGLISH FILE-Upper-intermediate Student's Book- が渡されました。
新たなクラスの先生は、女性のLindaとEve のお二人でした。レッスンはテキストにより逐次進めると言うより文法や用法の補足的な説明に係わりある章を取り上げたり、コピーを配り間違い易い形容詞等の解説がありました。特に adjective order やso/such...that 等の使い方は大変有意義でした。また、午後のエクスカーションで訪れた名所旧跡等の概要や来歴、英王室の系譜等のユーモアを交えた解説も面白く聞くことが出来ました。この他午後のレッスンにコース全員が6班に分かれ、英国の歴史、食事、パブ等の話題について討議し、その結果をリーダーが全員に説明すると言うものがあり、そのリーダー役を仰せつけられました。これも勉強の一環と受け止め引き受けました。更にお菓子の賞品のついたクイズを班毎に争うレッスンもあり皆得点に一喜一憂していました。
通常のレッスンとは異なり週に一回午後にフリーレッスンの時間がありました。先生を目指す大学生による言わば教育実習のようなレッスンです。少し難しいかなと思われましたが、Upper Intermediate のレッスンに挑戦しました。教室に入ると学生と思しき若い生徒十数人とその後ろに教官らしい先生が控えていました。二回出席した折に配布されたA4版、二頁程のコピー用紙には、Hidden messages, Glastonbury Festival of Contemporary Performing Arts '10,CELEBRATE WITH FOOD, The Economist-Privacy at Facebook and Google 等の表題が載っていました。課題毎のレッスンでは、速読による内容の把握とその説明、リスニングに対する質問の回答、グループに分かれた討議・作業等が盛り込まれ、一課題約45分は短く、少しハードなレッスンとなりました。しかし、難しい語彙の説明から入る導入部は分かり易く、今後何を心がけて英語の勉強を続けるべきか大変参考となり、また刺激になりました。
レッスン最後の金曜日、午前のレッスンでEve が Leaving on a jet plane のCDを掛けてくれ、皆で一緒に歌いました。そして午餐の後、大きな教室に集まったコース全員が二週間で学校を去る私を含めて7名に対する終了証授与式に参加され、大きな拍手で終了を祝ってくれました。引き続いて開かれた送別パーティーではこの度の在学で培ったお互いの友情を交歓していました。
4.3 エクスカーション
名所旧跡や庭園等を巡るエクスカーションには、レッスンを終えた午後と週末の土曜日、日曜日に行く二種類のものがありました。先ず午後のエクスカーションについて思いつくまま簡単に紹介します。
セントラルボーンマスとコンプトンエーカーズ 午後1時、学校正門前に停車している大型バスに乗り込み、ボーンマスの市街地にあるローワー・ガーデンで下りると大勢の行楽客で賑わい、公園中央にはボーンマスのシンボルとも言える観光用の大きなバルーンが揚っていました。次に訪れたのは、西方のプール湾を望むコンプトンエーカーズの庭園でした。ローマ式庭園や日本庭園等素晴らしい庭園が連なる広い園内を散策して回りました。帰りは海岸沿いの高級住宅街を貫け、それぞれのホームステイに近い場所まで運んでくれました。
ルールワースカースルとコウヴ この日ウェセックスウエイを西に向かい最初に訪れたのは、ルールワースカースルでした。ハンティング・ロッジとして1608年に建てられ7人の君主にその場を提供してきたカースルは、1929年の大火事にあい辛うじてその残骸を留めました。その後の修復作業で外壁は嘗ての栄光を取戻したものの内部は消滅したままです。内部に設えられた階段を上り塔上にでると、広大な敷地と遠くプールの町が見渡せました。地下の復元された厨房は当時の豪華な食卓を連想させずには起きませんでした。年間を通じ色々の催し物が行われ、今は海賊フェスティバルの最中でした。大砲の響きが聞こえ、顔にペインティングした子供が散見されました。
次にコーチが向かったのはプールの海岸でした。昔漁師の家であったと言う草で葺いた屋根のある、まるでお伽噺に出てくるような可愛い白い家屋の連なる一隅でした。小高い丘を10分程登ると大海が開け、振り返ると海岸の一部が浸食により出来たと言うコウブ、円形の小さな湾は青々と静かに幾艘もの船を浮かべていました。素晴らしい光景に暫しうっとりと眺めていました。帰途に着くまでの暫時、暑い日差しの下で、先生の Tony と他の男性と一緒にカフェテラスで茶話に興じました。
二週間滞在する中で週末の一日コースのエクスカーションには、3回程参加する機会を得ました。
ロンドン 旅行の前日講堂に集まった参加者全員に対してLinda と Tony からロンドンについてフィルムを交えて事前の説明がありました。当日は午前8時、コーチは学校の正門前から出発しました。車窓の景色を楽しみながら、また時には前後に座った人とお喋りをしながらロンドンに向かいました。ドライブインでの休憩後暫くしてから雨が降り始めその後ずっと降り続いていました。高速道路M3はヒースロー空港を過ぎやがてヴィクトリア駅周辺へと近づきました。
雨のため市内をコーチで巡回することになりました。渋滞するなかどのように回ったか良く覚えておりません。デパートのハロッズ、紅茶で有名なファートナム・アンド・メイソン、ピカデリーサーカス、トラファルガー広場を過ぎると左折してセント・ポール大聖堂前を通りロンドン・ブリッジを渡りテムズ川の対岸にでました。またタワー・ブリッジを渡りロンドン塔を見た後テムズ川沿いにトンネルを貫け、対岸のロンドンアイの大観覧車を見ながらウエストミンスター・ブリッジに至りました。ビッグベン、国会議事堂を眺めつつ首相官邸、ホース・ガーズ等の官庁街を通り、更にバッキンガム宮殿、ハイド・パークを経て自然史博物館前でコーチは止まりました。このあと午後4時45分まで自由時間となりました。
相変わらず雨は降り続き幾分強くなってきました。女性3人と私の日本人グループは、近くの地下鉄サウス・ケンジントン駅周辺にパスタの店を見つけ入りました。スパゲティとパスタを皆でシェアしワインを傾けました。生憎の天候のなか散策も儘ならず自然史博物館で過ごすことにしました。大聖堂のような壮麗な建物に入ると大きな恐竜の骨格が飾られ、その奥の階段の踊場にはかの有名なダウインの彫像がありました。年輪を重ねた巨大なジャイヤント・メタセコイヤの茎部の展示に目を見張りました。その後は鉱物等の標本を見て回りました。
ブレナム・パレス この他のエクスカーションは当初から本コースのプログラムに組み込まれていましたが、日曜日のエクスカーションはオプションで別料金(37ポンド)を払い参加しました。ほとんどの生徒が参加していました。コーチはロンドンに向かう高速道路 M3 を走り、ウインチェスターから北上する道路に入ると青々とした牧草地や黄色の菜種畑の点在する田園風景に変わりました。オックスフォードを過ぎると程なくブレナム宮殿のある町 ウッドストックにつきました。
英国の元首相チャーチルの生家としても有名なブレナム宮殿は、初代公爵ジョン・チャーチルがスペイン継承戦争の功労によりアン女王から送られた居城で、今は11代当主デューク・オブ・マールボーローが継承しているとのことです。コーチを下り側面の城門を潜ると建物に囲まれた中庭に入り、そのずっと先にある城門をまた潜るとやっと正面広場にでました。一階にはチャーチル首相の生まれた部屋やイギリス王室を迎える華麗な調度品を設えたステート・ルーム、今でもクリスマスに家族揃って使う大きなディナー・ルーム等を見て回り、祭壇のある部屋でトイレに行っている間に皆と逸れてしまいました。暫く辺りをさがしましたが、大きな宮殿のこと分からず、後は一人で行動することになりました。
宮殿に隣接する噴水公園の前で、ホームステイ宅で作って貰ったパックト・ランチを食べてから、広大な敷地内を見て回ることにしました。遥かかなたまで続く広大な芝地の左側にはこんもりとした森があり、そのなかのシークレット・ガーデンは木漏れ日を浴び静かに佇んでいました。芝生の中道を貫けて右側の森に入り暫く歩くと、ダム湖から流れでるカスケードに出、この光景は一幅の絵を見ているようでした。ダム湖を渡る風は涼しく幾分か足も軽くなった面持で湖畔の路を宮殿まで帰りました。
まだ帰りの時間までは間がありましたので、2階を見学することにしました。薄暗い個室の連なる部屋には、幽霊のようなフィギュアにより300年以上に亘る当家の未だ語られたことのない秘話が当時の衣装を纏った人形や古い家具、映像と共に語られていました。そして最後に当代当主による映像による歓迎の挨拶がありました。莫大な蔵書の図書室を見てから宮殿を出て正門に回ると、ダム湖に続く湖、クイーン・プールの上にグランド・ブリッジが架かりその路はどこまでも続いていました。緑の地平線と青空にぽっかりと浮かぶ白い雲を暫く眺めて過ごしました。皆歩き疲れたのか帰途のコーチのなかではお喋りする人もなく静かでした。
ウインチェスターとニュウ・フォレスト 嘗てウェセックス王国の首都として栄えた古都ウインチェスターはコーチで1時間程で着きました。アルフレッド大王の像の前でコーチを下り、中世の面影のある建物の並ぶブロードウエイ、ハイストリートを真直ぐ進み、先ずグレート・ホールを訪ねました。古い礎石の残る広場から中に入るとアーサー王所縁の円卓が壁に掛けられている以外はガランとしていました。ハイストリートを戻り市立博物館を覗いてからヨーロッパでも最長の身廊をもつと言うウインチェスター大聖堂に入りました。その身廊の北側にジェーン・オースティンの墓がありました。最後にイッチン川のシティ・ミルまで戻り、小屋から溢れ出る水の流れを橋の袂から飽かず眺めました。
次にChawton にあるジェーン・オースティンが母や妹と一緒に住んだ最後の家を訪れました。綺麗な庭と共に、食堂、居間、寝室そして窓辺に腰掛けて執筆したと言う小さな椅子とテーブル、原稿等を見て回りました。
更にコーチはニュウ・フォレストのほぼ中心に当たるLyndhurstに向かいました。ニュウ・フォレストと言ってもウイリアム征服王が王室狩猟場を設けて以来、今や千年近くの歴史を刻む国立公園となっています。ニュウ・フォレスト・ミュウジアムを見学した後、ハイストリートに出ると行き交う行楽の人が皆アイスクリームを食べているので、店を見つけて入りました。
最後はLinda と Tonyの住むニュウ・フォレスト内のBURLYの町でした。魔女の店やサイクルショップがあり、引率のTonyに付いて回るとLindaが現れ、一緒に馴染みのパブ クイーン・ヘッドに連れて行ってくれました。
4.4 学校生活
ボーンマスに滞在した二週間は、学校での午前のレッスンと午後のコース全員による各種のカリキュラムないしエクスカーションが組まれ、週末には土曜日、日曜日共にデイトリップに参加したので、余暇と言える日は二週目の月曜日、バンクホリデイの公休日だけでした。その日も日本の女性達と一緒に行動したので一人で過ごす日は皆無でした。
毎朝食事を終えると着替えをし、テキスト、筆記用具、雨具、水を入れたペットボトル等を入れたバッグを背負い、学生気分よろしく天気の日は25分程の路を歩いて通いました。雨の日二回だけコーチに乗りました。ホームステイ宅からバス通りのチャーミンスター・ロードに出ると、そこから学校までは一本路です。緩やかな登り坂の両脇には古い教会が立ち、最初の交差点の一角には有名なリッチモンド・アーム・パブがあり、その先の平坦になった路の両側にはインド、イタリア、アラブ、日本等各国の料理店が立ち並んでいました。そして大きな共同墓地を過ぎ次の交差点を渡るとウインボーン・ロードとなり学校の正門に着きました。
午前のレッスンの前半が終わると30分間の休憩時間となります。食堂に集まりコーヒー、紅茶や軽いスナック等を飲食しながらお喋りする生徒、食堂前のテラスや芝生で寛ぐ生徒等思い思いに過ごしていました。ある日何を間違えたのか昼休みと勘違いし、キャフテリヤに並び、今日は何故メーンディシュがなくサンドイッチばかりなのかと思いつつ大きなサンドイッチを買いました。トレイに乗せて皆のいるテーブルに行くと、未だお昼の時間ではないと言われハァと気がつきました。結局このサンドイッチは食べず無駄になってしまいました。
昼休みの食堂は他のコースの若い生徒や先生達も一緒となり大いに賑わいました。各国の生徒や先生と一緒にテーブルを占めた時は、勿論英語で話しますが、ドイツ語圏から来た生徒等はドイツ語で、スペイン語圏から来た生徒等はスペイン語で、そして日本からの生徒等が日本語でお喋りしていました。食堂の入口にはパソコンコーナーがあり自由に使用していました。昼食のメニューには、肉、魚、パスタ等5~6種類のメインディシュの他、ライス、温野菜、スープ、フレッシュサラダ、サンドイッチ、ヨーグルト、各種飲物が用意されていました。レッスン途中にお腹が空いてきた私は美味しく戴くことができました。
また昼休みはお互いの情報交換の場としてとても有益でした。二人の日本人スタッフの方も常に食堂に来られ相談にのって戴きました。土曜日のエクスカーションに参加するためには、受付での登録が必要であることも他の生徒から聞きました。ロンドン行きのコーチは鉄道より安価でしかも受付で買うことができるとも聞きました。滞在を一日延ばし土曜日のエクスカーションに参加した時も、ホームステイ宅や次の滞在先への連絡等、日本のエイジェンシーを通じての遣り取りに当たって、日本人スタッフの方には大変お世話になりました。
午後のカリキュラムは通常3時半ないし4時には終わりました。生徒は三々五々学校を出て帰られましたが、中には何人か集まり寄り道する姿も見掛けました。我々日本人5人も夕食までの小一時間を、学校に隣接するThe Dean Park Inn に立寄りパブ・レストランのある一階のテーブルを囲み、ギネスビールを飲みながら、あるいは少し足を延ばしチャーミンスター・ロードの飲食街にあるカフェに入りソフトドリンクを飲みながら5時位までお喋りして過ごしました。因みにホームステイ宅の夕食は6時から7時半位でしたので帰宅時間を考えるとこれ位が適当でした。
4.5 余暇時間
ボーンマスに滞在した二週間は本当に盛り沢山のスケジュールで、先にも述べたように余暇と言えるのはバンク・ホリデイ一日だけでした。この日も日本人5人は10時に学校の正門に集まり、徒歩でボーンマスの中心街を見物することにしました。少し先にある公園Horseshoe Commonを貫けて高速道路Wessex Way の高架を潜ると市街になりました。デパートのHOUSE of FRASER、映画館のODEON、劇場のPAVILLION THEATRE の前を通りラッセル・コート美術館を訪ねました。
美術館は海岸を見下ろす段丘の上にありました。綿花とワインの貿易により財を成したSir Merton and Lady Russell-Cotes がこの地にホームとして建て、ご夫妻が内外を旅して集めたビクトリア朝の絵画、彫刻、調度品等を始め中国、日本からの土産物や珍しい品々を飾り、展示していたのを、後年町に寄贈されたとのことです。館内を一巡してから併設されたレストランのテラスで長く連なる海岸線と眼下に広がる砂浜を見ながら昼食を楽しみました。
海沿いの坂道を下りボーンマス・ピアまで来たところで、スパーや買い物に行く女性二人と別れ、残った三人は、劇場や遊戯場を備えた桟橋をひと巡りしました。ボーンマスの象徴とも言えるバルーンが青空高く揚がっていました。ビーチは若者や家族連れで賑わい、海水浴をする姿も見受けました。その後市街のデパートまで戻り、二人の女性とも別れ一人で帰ることにしました。
リッチモンド・ヒルからWessex Way のジャンクションを越えWimborne Road に入ると、その先に学校が見えてきました。正門を過ぎセメタリー・ジャンクションを渡り共同墓地に足を運びました。最近埋葬されたのか花一杯に飾られた墓石がありました。高い尖塔のある古い教会を目指して暫く歩き、その前を通り過ぎチャーミンスタ・ロードの門まで行くと生憎閉まっていました。仕方なく元来た路を正門まで戻りました。少しばかり歩き疲れ近くの停留所からコーチに乗って帰りました。
4.6 ホームステイ
ホームステイしたお宅は、学校から歩いて25分程、コーチの走るメインロードから数百m.離れた住宅街の一角にありました。道路両脇の歩道には車が列を成して駐車していました。坂道に面した二階建て戸建住宅の前庭には花が植えられ、階段状の裏庭には数段の花壇とテラスが広がり、大きな樹木が隣家との境界を成していました。
ホストファミリーはご夫妻とペットの犬と二匹の猫でした。ホストは、奥様でした。ご主人は既に退職され今は、夕方からのパートに就かれていました。息子さんのご家族が近くに住んでいました。
ボーンマスの駅についてから、奥様にその旨携帯電話すると間もなく犬と一緒に車で迎えに来てくれました。出迎えてくれたご主人が重いスーツケースを二階の一室に運んでくれました。そこが私に用意された部屋でした。窓側と壁際に二つのベッドがあり他にサイドボードとウォードローブが置いてありました。バスルームとトイレも同じ二階フロワーにありました。
ホームステイ宅での一日は次のようなものでした。朝6時に起きるとジャージーに着替え、バスルームに行きシャワーを浴びました。バスタブはありましたが日本のようにお湯を一杯にして入浴することはしませんでした。洗面しコンタクトレンズを入れ、それからコップ一杯の水を飲み、学校に行く準備をしてから7時20分頃一階の食堂に下りて一人で食事しました。テーブルに朝食の用意はされていましたが、誰も起きてはきませんでした。ご主人のパートの関係で朝は遅いようでした。朝食は牛乳に浸したシリアル、マーマレードまたはストロベロージャムを付けたトースト二枚―薄切りだが密度の濃いー、ミルクティーそれにりんご、オレンジまたは洋梨一個と言う毎日でした。それから二階に上がり、歯を磨き、着替えをして学校に出掛けました。事前に鍵を渡されていました。ドアを開けると一匹の猫が庭に飛び出していきました。時折犬も見送りに廊下に出ていました。たまに奥様が顔をだされた時は、See you later, bye!と言って出掛けました。
夕食は6時と言われておりましたので普段の学校からの帰宅時間は、5時半から6時頃までの間でした。ドアの鍵を開けI'm home!と大きな声で中に入りました。バッグを下ろし洗面してから一階の食堂に下りると、テーブルには夕食が用意されていました。奥様も一緒に食事され、学校での出来事やテレビのニュース等について積極的にお喋りするように心掛けました。息子さん夫婦とその子供達が来ていたり、ご主人が居られる時はミルクティーをいれて貰い恐縮しました。夕食はメインディシュに紅茶、デザートでした。主食は勿論家庭料理が主でしたが、野菜の突合せも多く総じて食べ易いものでした。只、ポテトフライは量が多くこれだけは全部戴くことは出来ず残してしまいました。デザートも美味しく戴きましたが、中には甘すぎるものもありました。
それから7時過ぎまでリビングルームのテレビを見てから2階の部屋に上がりました。部屋着に着替えてからベッドの上でホームワークをしたり、日課にしている日記のメモを認めたり、時には部屋に備付けのテレビをつけて過ごしました。日本では就寝前に入浴する習慣でしたが、先の先生宅ホームステイ時から朝のシャワーを浴びることにして洗面だけで就寝しました。汗をかかないことも一つの理由です。いつまでも明るいイギリスは9時半をすぎてやっと暗く成りかけました。窓際のベッドでは明るすぎ壁際のベッドで休むことにしました。
これが普段の日課でしたが、エクスカーションのある日は帰りが遅くなり7時ごろの夕食ということもありました。前日までに連絡しておくことが大切です。土曜日や日曜日のデイトリップの前日には昼食のお願いをしてパックト・ランチを作って貰いました。サンドイッチにスナック菓子、果物が入っていました。
ホームステイした二週間の間、ご夫妻には色々とご配慮戴きました。最初の日、夕食が終わると奥様が犬と一緒に車で、途中息子さん宅の犬も乗せ、ボーンマスの海岸が一望できる崖上の林間の公園に連れて行って貰いました。太陽も未だ高く、砂浜は輝き、ボーンマスの町が遠望できました。解き放された二頭の犬も嬉しそうに公園内を飛び回っていました。2日目の夕方、今度はご夫妻が犬を乗せ、隣町のプール港の砂丘の先端まで連れて行ってくれました。黄昏時の砂浜には、未だ若者や家族連れの集う姿がありました。砂は足が捕られるほど細かく柔らかで、青く澄んだ波が浜辺に打ち寄せていました。小さな桟橋に立ちご主人が遠くに見えるホワイトクリフを指差しました。Sandbanks に建つホテルは、イタリア人のマルコーニーがこの一室から対岸に向けて世界初の電信実験をしたことで有名だと説明してくれました。近くの島に渡るフェリーボトは早い海流に流されないようにチェーンの巻き取りを利用していました。一緒に行った犬が他の犬と戯れていたのは言うまでもありません。海岸沿いの林間には大きな邸宅が並んでいました。ご夫婦は宝籤が当たったら住みたいなと冗談を飛ばしていました。
ある日、エクスカーションから帰ると、庭でバーベキューパーティーが開かれていました。ご夫妻の他に息子さん夫婦と孫に当たる男の子と女の子、それに女の子のボーイフレンドが来ていました。パーティーは既に始まっていましたので、バッグを下ろして早速参加しました。ビールを飲みながら盛り沢山のご馳走をご相伴しました。ビーフを焼いていたご主人が何枚も持って来てくれました。ご家族が揃い丁度良い機会だと思い記念写真を撮らせて貰いました。日は未だ高く西の空に輝き、階段状の花壇とテラスを明るく照らしていました。パーティーが一段落するとご主人を始め皆が花壇に入り大きくなった木の伐根や伸びきった雑草の引き抜きを始めました。チェーンソーや伐根用の道具を持ち出し要領良く運んでいるのは流石だと思いました。犬が潰れたボールを見つけ戯れる姿が滑稽でした。飽かず眺めていましたが、少し疲れていたので途中で部屋に上がりました。
また、別の日、普段通り6時近くに帰宅しドアを開けると、何時もなら居間から犬が飛び出して来るのにその気配もなく誰もいない様子なので、そのまま二階の部屋に上がり洗面と着替えを済まし居間に下りました。食事の用意もされておらず訝しく思っているとドアが開き、奥様とご主人の声がしました。出迎えに出るとご主人がトレーに何やら乗せて運んできました。何とローストチキンでした。聞くとこの日はご主人の誕生日で、お祝いのパーティーがありその折のご馳走を運んで来てくれたのです。暖炉やサイドボードの上には、家族からのバースデーカードが幾つも並べられていました。誕生日おめでとうございますと祝福の言葉を述べてからご相伴にあずかりました。その後何日かバースデーカードは暖炉等の上に飾られていました。
4.7 ロンドンへの移動
いつもより少し早めに目が覚めました。花柄のカーテンを通して差し込む光で部屋は仄明るくなっていました。目覚ましの音とともに6時に起きました。シャワーと洗面そして着替えを終えてから、昨夜のうちに殆ど終えていた荷物のパッキングを再確認しながら行い鍵を掛けました。
一人で朝食を済まし二階の部屋で暫くテレビを見ていましたが、ご主人と奥様の声がしたので庭に出ると、二人で花壇に水を撒いていました。奥様が先日植えた草花の名前をあれこれと指を指しながら説明してくれました。またご主人も大きな木々を伐採して今の庭を作ってきたとその経緯を説明してくれました。奥様が持って来てくれた赤色のジュースをテラスの椅子に腰掛けて飲みながら、僅かに青空の見える曇天の下で近隣の家並みや庭を暫く眺めていました。
滞在中の親切なお心遣いに対して感謝しお別れの挨拶を終えると、ご主人が重たいスーツケースを玄関先まで運んでくれました。奥様の運転する車でボーンマスの鉄道駅前のコーチ・ステーションまで送って貰いました。途中公園の側を通ると、ゴルフも出来るがここでは人や犬の散歩が優先されると説明してくれました。何台かコーチが止まっていました。奥様は荷物を降ろすと、道中気をつけて、さよならと言って帰って行きました。
コーチの行き先を見てから、改めて運転手さんにロンドン行きかを確かめました。始発ではなかったのか車内後ろは殆ど満席でした。予定していた時刻より30分ほど早かったが前方右側の座席に座ると直ぐに出発しました。次のバス停で何人か乗降し、ご婦人が隣の席に座りました。暫くして話し掛けると、サウジから帰った弟に暫く振りに会い、二人でロンドンを経由してノーリッジに行くと言っていました。ロンドンに向かう高速道路M3はエクスカーションでも通っており、見慣れた風景が車窓を過ぎて行きました。何時しかまどろみ気がつくとロンドン市内に入っていました。道路は渋滞していましたが急ぐ旅ではなかったので、道路沿いに連なる古い建物に見入っていました。果たしてヴィクトリア・コーチステーションに着いたのは午後一時を過ぎていました。
荷物を受取り、案内標識を見ながらコーチステーションの建物を通り貫けると、表通りの歩道にTaxi Rank の標識を見つけタクシーが駐車しているのが分かりました。ロンドンの滞在先であるSwiss CottageのB&Bの住所を書いた紙片を運転手さんに見せ乗り込みました。ハイド・パークを過ぎ暫くは交通量の多い道路を走っていました。やがて住宅街に入ると運転手さんは沿道に立ち並ぶ家の番地を確認しながらゆっくりと車を進めました。しかし道を間違えたのか見当たらず、引き返し別の道に入り間もなくお目当ての番地を見つけることができました。
5.ロンドン
5.1 B&B
ロンドンの滞在は3泊4日で、始めてB&Bに泊りました。B&Bは地下鉄ジューバリーラインのスイス・コティジ駅から歩いて5分程の閑静な住宅街にある4階建てのフラットでした。道路に面した前庭は花壇あるいは駐車スペースとなり、矩形に分割された裏庭は各家の花壇や菜園、大きな木の茂る緑地になっていました。
タクシーを降りドアの呼鈴を押すと、暫くしてご主人が現れました。リフトがなく重いスーツケースを二人して4階まで持ち上げました。私に用意された部屋は道路に面した西側の部屋で、踊場を挟んで食堂があり、バスルームはその間にありました。荷物を解き食堂に行くとご主人が、本来なら予約通りにバスルーム付の部屋を用意するところでしたが、アイスランドの火山噴火のため空港が閉鎖となり、現在宿泊している客が帰国できず宿泊が延びているのでご理解戴きたいとのことでした。止むを得ないことと了解しました。明日の予定を聞かれ美術館巡りをしたいと言うと、地下鉄の乗り方や食事の場所等色々と教えて戴きました。ついでに帰国当日のヒースロー空港までのタクシーの予約をお願いしました。
ご主人が階下に降りられて食堂に一人となり、気がつくと時計の針は2時半を指していました。移動の緊張と慌しさのため空腹を忘れていました。バッグから取り出したパックドランチを食べながら、ボーンマスのホームステイ先で出発間際に急いで作って貰ったことを思い出し今更ながら有難いと感謝しました。部屋に戻るとロンドンの地図とガイドブックを広げ明日の見学場所等暫し検討していました。
スイス・コテッジ駅のある大通りフィンチリー・ロードの沿道にはインド、中国、アラブ、イタリア等エスニックな料理店が並んでいました。暫く駅周辺を散策した後、イタリア料理店に入りました。夕方の6時は未だ太陽も高く強い日差しが店のテラスを照らしていました。テラスでお茶を飲む客や歩道を行交う人々を眺めながらテュナステーキを注文しワインを飲みながら食しました。店内の壁にマリリンモンロー、プレスリー、イングリットバーグマン、ハンフリーボガード等の写真が飾ってあるのが不思議に思えました。
西日は窓辺の薄いブラインドを通して部屋に入り、窓を開けていても幾分蒸暑くさえ感じられました。部屋着に着替え日記代りにつけているメモを書き終わると、部屋には備え付けのテレビはないので、ほろ酔い気分も手伝いただ呆然と暮れなずむオレンジ色の空を眺めていました。
5.2 美術館巡り
シャワーを浴び着替えを済まし食堂のドアを開けると奥様が朝食の用意をしていました。
ご主人からオートミールの食べ方を教わり、その後紅茶とスコーンの朝食を食べながらお喋りしているところにドイツ人家族が見え挨拶を交わしました。
長袖シャツにパーカーを着てバッグを背負って静かな朝の歩道を駅まで歩きました。駅の窓口でオイスターカード(日本のスイカやイオカに当たる。)を買い、ベイカー・ストリートでベイカールー・ラインに乗換えチャリング・クロスに向かいました。駅を出ると目の前にネルソン記念柱が聳え噴水のあるトラファルガー広場が現れました。ナショナル・ギャラリーの開館まで時間があったので、道路を隔てた対面にあるセント・マーティン教会を訪ねました。室内の音響効果が良く著名な交響楽団の演奏録音に長く使用されてきたことで有名であると聞いていましたが、係りの人に聞くと15年前に止められたとのことでした。そらからセント・ジェームス・パークの途中まで散策して美術館に戻りました。
ナショナル・ギャラリー 階段を上がった正面入口には多くの見学者が集まっていました。10時の開館と同時に中に入り館内の平面図を手に、短い時間のなかでどのように回ろうかと思案しました。13世紀から20世紀始めまでの絵画が世紀毎に幾つかのセクションに分かれて展示されていました。大小の展示室には多くの有名な絵画を掲げられ静かな落着いた雰囲気のなかで見て回ることができました。静かに模写する人や学芸員あるいは先生の説明を熱心に聞き入る学生等散見されました。時々進む方向を間違え係員に聞くこともありましたが、正午近くまでには殆どを見て回りました。ロンドン滞在中は是非訪問したいと思っていた一つであり、感激の余韻とともにもっとゆっくりと時間を掛けて見られればとの思いが残りました。
パイプオルガン演奏 セント・マーティン教会の大きな地下室はテーブルが並べられキャフテリヤ方式の食堂になっていました。石畳の下には多くの人が葬られているとのことです。フライドターキーをトレイに乗せレジに並ぶと、前に日本の女性がいましたのでテーブルをご一緒して貰いました。聴くと女性は臨月を迎え双子の子供が生まれると忙しくなるので、静かな今、午後からこの教会で行われるオルガンの演奏を聞きに来たと言われました。女性が席を立たれ暫くしてから、礼拝堂に入るとほぼ満席の状態でした。日本でもパイプオルガンの演奏は何度か聞いたことがありますが教会での演奏は始めてでした。しかも音響効果の良い教会での演奏は、いやがうえにも荘重な面持ちにならざるを得ませんでした。残念ながら後の見学予定もあるので途中で退席しました。
ナショナル・ポートレート・ギャラリー 教会前の道路を横切りナショナル・ギャラリーに隣接するナショナル・ポートレイト・ギャラリーを訪ねました。15世紀のチューダー王朝から19世紀のヴィクトリア王朝、更に20世紀に至る間の王侯貴族、著名人の大きなポートレイトが展示室の壁一杯に掲げられていました。
メインホールから長いエスカレータで3階まで上がり、各展示室を駆け足で経巡り、2階、1階へと下りてきました。何か特別展をやっていたのか子供たちが床に座り盛んに絵を書いていました。
大英博物館 チャリング・クロスからノーザンラインに乗り、一つ目の駅レクスター・スクエアでピカデリーラインに乗り換え、四つ目の駅キングス・クロスで降り駅員に大英博物館への道筋を聞くと、ラッセル・スクエアの方が近いと言われました。仕方なく上がってきたエスカレータを降りてホームに戻り、一つ駅を戻りました。こんもりと木々の茂るラッセル広場を斜めに横切ると大英博物館の建物が見えてきました。
正面の階段を上り受付で館内図を求め、案内係りの日本女性に尋ねると丁寧に説明してくれました。18年前家族と一緒に訪れた時と大分変わっていました。中庭のグレート・コートはガラス張りの屋根で覆われ、ロゼッタストーンもケースに収められていました。古代エジプトコーナーを始め、古代ギリシャ・ローマ、アジア、ミドル・イースト等と広い館内を見て回りました。数千年も前に栄華を極めた文明の数々の遺品を眺めながら、その偉大さに改めて感動し、圧倒される思いでした。
博物館を出ると夕暮れがせまり前庭は人影もまばらでした。もと来た道を駅に戻る途中ロンドン大学を覗いてみました。中庭の一角に多くの学生が集まっているのを見つけると、その中で一人の学生が頭に四角い箱を被り、何やら踊りながらつぶやいていました。
家路を急ぐ通勤客と一緒にラッセル・スクエアからまた地下鉄に乗りピカデリー・サーカスに向かいました。地上に出ると混雑する道路の交差点にあるエロスの像の周りには大勢の観光客が座り、写真を撮ったりお喋りをしたりする光景が見られました。そろそろ空腹を感じ始め適当に近くのレストランに入りました。一見して豪華なそれと分かりました。煌びやかに光るリカーを備えたカウンターの前には幾つものソファーが置かれ、奥のダイニング・テーブルは鏡や彫刻、モザイクで飾られていました。ウエイターが来てジャケットはお持ちですかと訪ねられ、持っていない、日本から来たと言うと暫くして壁際のソファーテーブルに案内されました。周りの客は一様に身だしなみの良い服装をしていました。前菜、メインディッシュ、デザートのコース・ディナーを頼み、ビールを飲みながら賞味しました。後で分かったことですが、このレストランはネオ・ビザンティン建築様式の贅を凝らした100年以上の歴史を持つThe Criterion Restaurant でした。
ピカデリー・サーカスは未だ大勢の行交う観光客で溢れていました。遠く西の空も未だ青く光っていました。地下鉄を乗り継ぎB&Bに帰りました。
5.3 ケンジントン宮殿、ハイド・パークとミュージカル
食堂にはイギリス人男性の技師とその部下と見られる若い男性、それに若い日本人男性の留学生がいました。技師とB&Bのご主人は先般アメリカのフロリダ沖で起きた原油流出事故について盛んに議論を交わしていました。ご主人に今日の行き方を再確認してからB&Bを出ました。
ケンジントン宮殿 歩道は濡れ少し雨模様でした。ベーカー・ストリートまで行きサークル・ラインに乗りたいと駅員に尋ねると、隣駅のエッジウェア・ロードで乗り換えるようにと言われました。環状線ではないのだと思いつつ、隣駅からディストリクト・ラインに乗りハイ・ストリート・ケンジントンまで行きました。
ケンジントン・ハイ・ストリートを少し行くとケンジントン・ガーデンの一隅が見えて来ました。ロイヤル・ガーデンを貫けてケンジントン宮殿の前に来た時は、雨が幾分か強くなっていました。宮殿前のパレス・アヴェニュには各国大使館が立ち並び日本大使館には日章旗が掲げられていました。宮殿の外縁を一回りして入館できる入口を見つけ中に入りました。ダイアナ妃も住んだことのあるこの宮殿は装いを新たにし、華麗な装飾・調度品とともに映像、音響設備を設え宮殿に纏わる秘話を紹介していました。宮殿脇にある掘り込み式の美しい花壇を見てからThe Broad Walkに出ると、ヴィクトリア女王の銅像が広い径を挟んでダイアナ妃を記念して設けられた噴水のあるRound Pond を静かに見下ろしていました。B&Bのご主人からアン女王所縁のオランジェリーで食事すると良いと伺っていましたが時間の都合でパスしました。
ハイド・パーク ケンジントン・ガーデンの境が何処なのか良く分かりませんが、一旦南側を走るケンジントン・ロードに出て、円形をしたロイヤル・アルバート・ホールの概観を眺めました。最近の有名な交響楽団はここで録音するとのことです。また公園の中に入ると金色に輝くアルバート・メモリアルがあり、ヴィクトリア女王の夫君アルバート公がホールに対峙して立っていました。
霧雨の林間を横切り、公園の中程にある細長い池を二分する道路橋を渡り、池沿いの径路を歩きました。岸辺の水鳥の他は人影も疎らで、時折乗馬を楽しむ一団や雨に濡れながらランニングをする人を見かける程度でした。池の端にあるカフェ・レストランで雨に煙る景色を眺めながら大きなサンドイッチと紅茶の昼食を取りました。美味しかったのですがこれが後に影響しました。この頃には雨も一段と激しくなり強く湖面を叩いていました。暫く様子を見てからカフェを出ました。
ハッロズ ハイド・パーク・コーナーからピカデリー・ラインに乗り、次駅のナイツ・ブリッジに向かいました。地下鉄の出口を登ると、愛くるしい小象の像がありました。ここが有名なデパートのハッロズで各国の旗が翻っていました。古代エジプトの彫像を施したエスカレータを登り売り場を見て回りました。そのエレベータで地階まで降りると人だかりがあり見ると、故ダイアナ妃とハッロズの御曹司の写真が一緒に飾られていました。外に出るとあんなに強く降っていた雨も上がり日が照ってきました。
ミュージカル ナイツ・ブリッジからまたピカデリー・ラインに乗りピカデリー・サーカスまで行き、近くの土産物店を覗いてからヘイマーケット・ストリートをやや歩くと今日のお目当ての一つであるハー・マジェスティーズ・シアターに着きました。劇場の前には「オペラ座の怪人」の看板が掲げられ、既に大勢の観客が詰め掛けていました。それほど大きくはない劇場のほぼ中央、前列の座席に座ると、緞帳の上と両脇に鬼の形相をした男が美女を掴まえている彫像が目に入りました。先生に引率されたフランス人の小中学生の一団が入ってきて前二列に座りました。
オペラ座の怪人はこれまで映画や劇団四季のミュージカルを見て大体のあらすじは分かっていましたが、外国での舞台は始めてでした。華麗な衣装、舞台装置の素晴らしさに感動し、就中歌唱力の凄さに圧倒されました。劇の中で座席真上に吊り下げられていたシャンデリアが舞台に現れたときは本当に驚きでした。幕間に老夫婦と係員が口論していました。どうやら前列の座席予約を巡ってのことらしく後半の舞台には舞台袖のボックス席に移っていました。
ファートナム&メイソン 観劇の興奮が覚めやらぬなかピカデリー・サーカスまで戻り、更に西日に向かって歩くとファートナム&メイソンがありました。紅茶とアフタヌーン・ティーで有名な店であるとはボーンマスの語学学校で知りました。綺麗にお菓子等で飾られたウインドウを見てから中に入ると、沢山の種類の紅茶が並べられていました。どれを選んで良いか分からず店員さんに人気のある紅茶を選んで貰いました。後学のためアフタヌーン・ティーが如何なるものか試食しようと4階のレストランに行きました。明るく華やかななかにも落着いた雰囲気の部屋にはソファーテーブルが設えられ、着飾った女性のグループか女性連れの男性だけで、一人でいる男性の姿はありませんでした。暫くしてテーブルに案内されました。クラッシク・アフタヌーン・ティーを頼むと間もなく、サンドイッチやスコーン等を乗せた三段重ねのトレイとジャムの小瓶、紅茶のセットが運ばれてきました。ここにきて昼食の食べ過ぎが災いしました。豪華な美食を前に食が進まず少し残してしまいました。今思うと本当に残念なことをしました。
B&Bに帰るとご主人が明日の飛行機のオンライン・チェックインをしてあげると言ってパソコンを持って4階の食堂まで上がって来てくれました。ヴァージン・アトランティク航空のウェブサイトを開き、何度か所要の入力をしましたがなかなか座席の予約を取れず困惑しました。航空番号と予約番号を間違って入力していました。私も自宅で英国行きのオンライン・チェックインを始めて行い、十分承知していなかったので迷惑を掛けてしまいました。本来ならここで航空会社から確認書が届くのですが、登録したパソコンは自宅のものなので代わりに申し込み時の書類をコピーして貰いました。
チェックインに大分時間が掛かってしまいましたが、この後部屋に戻り遅くまで荷物のパッキングに掛かりました。滞在中テキストやパンフレット、多少の土産物でスーツケースの重量オーバーが懸念されたので、不用のものは極力置いていくことにしました。日本から持ってきたイギリスのガイドブックもB&Bに置いてきました
5.4 帰国の途
この2日間、目一杯動いたのが原因と思われますが、朝目を覚ますと腰の痛みを感じベッドから立ち上がるのに難渋しました。あるいはバッグを背負ったまま前かがみの状態で絵画を見ていたのが原因とも考えられました。シャワーを浴び着替えを済まして食堂に行くとご夫妻とイギリス人技師等が食卓で話しをしていました。余り食欲もなく朝食は紅茶だけ飲んでご夫妻に別れの挨拶をすると、奥様が改めてタクシーを呼んでくれました。腰の痛みを訴えるとご主人とイギリス人技師が荷物を階下まで運んでくれました。
玄関前の歩道で待っていると間もなく普通の乗用車が来ました。運転手さんはインド人らしく車のラジオからはインドの音楽が流れていました。住宅街の細い路地をくねくねと走りやがて高速道路に出ると、軽がると他の車を追い抜くほどの猛スピードでヒースロー空港に向かいました。空港に着くと腰の痛みを気遣ってかスーツケースをキャリアーに載せてくれました。
第3ターミナルのヴァージン・アトランティク航空のカウンターは日本人ツアー客を含め大勢の乗客で混雑していました。機器の前でオンライン・チェックインしている人もいました。何処に並んだら良いか分からず女性係員にチェックイン済のペーパーを見せると、こちらにと言われ並びました。チェックイン・カウンターの東洋系の顔立ちをした男性にパスポート、航空券と一緒にオンライン・チェックインのコピーを渡たし荷物を預けると、直ぐに搭乗券を発券してくれました。その後綺麗な日本語で丁寧に次のステップを説明してくれました。手荷物検査では腕時計を外し忘れたためか金属探知機がピーと鳴りましたが、出国審査ともに入国時と比べると短時間に終わりました。
広い出発ロビーは大変混雑していました。座席はほぼ満席状態で周辺の免税店も土産物を買う人で溢れていました。少し空腹を覚えベーグルの店に入り暫く休んでいましたが、出発まで未だ時間があったので免税店を巡り多少の土産物を買い求めました。出発時刻の午後1時45分も近くなり搭乗ゲート前に行くと乗客のほとんどは日本人でした。搭乗を待つ間、少し腰を痛めたとだけ女房にメールしました。
座席は来た時と同様、後部の通路側でした。バッグを上のハッチに納める前にセーターを取り出し冷房に備えました。隣に座った若い日本人女性に話し掛けると、イギリスにある日系企業に勤め同僚の外国人男性3人とビジネスのため日本に行くと言うことでした。10日間の滞在中、休日には実家に戻る予定であるがタフな日程だと話していました。このように海外で頑張っている若者がいるのだなと感心しました。イヤホーンを耳にして来た時と同じ映画2012を掛けてみました。映像の映りは良くありませんでしたが、前よりは少し聞き取れるような気がしました。一ヶ月間の滞在効果なのか半信半疑ではありますが・・・。パスタとレッドワインの夕食を終わると機内は暗くなり、少し眠ろうとしましたが寝付かれず只目を閉じていました。トイレに立つとエコノミー症候群予防のためかストレッチをしたり水分を補給したりする乗客の姿がありました。やがて明かりが付き朝食が運ばれて着ました。
定刻より少し早く着陸しました。ボーディング・ブリッジを渡り回廊を歩きながら見上げる成田の空は曇っており、周りの景色は灰色に静止しているように見えました。入国審査は簡単に済みまいしたが、バゲッジ・クレームでは荷物が出てくるまで暫く待たされました。スムーズに税関を通過しゲートを出ると、女房が迎えに来ていました。メールで腰の痛みを伝えていたので心配したようですが、無事な姿を見て安心したのか笑顔がこぼれました。
6.おわりに
冒頭にも述べたように今回の英国語学留学の旅は、私にとって本当に楽しく素晴らしいものとなりました。心配していた一人旅も杞憂に終わり無事帰国できたことを喜んでいます。また趣味として続けてきた英会話を英国での生活体験に生かすことができ、今後更なる継続に弾みをつけることが出来ました。殊に先生宅ホームステイでは終日先生とご一緒し親身にお世話戴くと共に、ご家族からも温かいおもてなしを受け心から感謝申し上げます。また語学学校では参加した人の国も、年齢もまた経歴もまちまちでしたが、英語を通じ楽しく交流することが出来ました。
帰国後暫くは時差ぼけの影響もありましたが、記憶の鮮明のうちに今回の旅の様子を書き留めておきたいと言う思いと、早くホームステイ先に御礼のメールを出さなければ、新しい友達と写真を交換しなければ等々の思いが交錯し、気忙しい日々が続きました。特にメールで写真を送るために試行錯誤が続きましたが、返信が届く度に安堵しました。
本稿の執筆はメールの送信や他の原稿も書きながらの作業でした。いざ書き始めてみると先ず、何処で何をしたかは思い出せても何時であったのかが不確かとなり、ここで役に立ったのが先生宅ホームステイ、語学学校での日程表は勿論のこと日課として付けていたメモでした。またエクスカーションの訪問先については、事前の知識不足も手伝い詳しく承知していないところもありましたので、持ち帰ったそれぞれのパンフレットや案内書を改めて読み直し記述しました。このような次第で筆も遅々として進まず、やがて語学学校のスタッフから頼まれた原稿も気になり、中断することも暫しありましたが、何とか書き終えることができました。
最後になりましたが、今回の英国語学留学の旅の全行程について事前に懇切丁寧に説明を戴き、かつ航空機、コーチの予約、受入機関との折衝・契約締結等の手配を滞りなく代理戴いたウエッブトラベル(株)留学センターのジェネラルマネージャー 岩月 真理氏にここに記して深甚なる謝意を表します。
大学卒業後、公務員となり各地方での建設事業に携わる。
その後機械メーカに転職し、今年一月に退職。
勤務の傍ら語学学校に通い、趣味としての英会話を現在も
続けている。”